舞鶴港にて
満州にて
 
 1925年(大正14年)香川県さぬき市生まれ。香川県立木田農業学校(現 香川大学農学部)卒業後、1943年(昭和18年)南満州鉄道株式会社殖産部に配属され、フラルキ農業修練所入営。農業技師として働く。1945年(昭和20年)2月召集され、鞍山高射砲隊に入隊。終戦後、鞍山から奉天に集結し武装解除。ソ連軍により貨車に乗せられ北西へ。
(祖父は生前「どこの収容所に居たのか分からないけど、湖の近くを通って収容所に着いた記憶がある。」と話していた。おそらくシベリアのバイカル湖の近辺だろうと信じていたが、抑留個人資料によるとシベリアよりもさらに西の旧ソ連の一部であったカザフスタンだった。)
 1945年(昭和20年)10月からカザフスタンのアクモリンスク(現アスタナ)に2年間、その後カラガンダに移送され1年間、そして1948年(昭和23年)11月にナホトカにある収容所に引き渡され、引き揚げ船「遠州丸」でナホトカ港から舞鶴港に同年12月3日に上陸していたことが明らかになった。
 その後結婚し、農業や畜産業で生計を立て、三人の娘を授かる。70歳を過ぎた頃、肺を患い「元気なうちに抑留の実態を伝えなければ。」と幼い頃から好きだった絵を描き始める。
 以後、地元での発表を中心に個展を3回開催し、香川県内グループ展に出品。それまで公開してこなかった抑留シリーズは、2009年(平成21年)の祖父と孫の二人展で初めて発表した。
 2012年(平成24年)10月10日、間質性肺炎のため他界。

Kazuichi Kawada 川田一一
 
2011年
 秋、昭和23年12月シベリア抑留者を乗せた引揚船が舞鶴港に近づくにつれて、祖国の山々が見え出し、私の胸は高鳴ってきた。見渡す山河は、紅葉の錦に彩られ素晴らしく美しい風景に、岸壁には小旗を振って歓迎する人々の光景に、母の懐の温もりに抱かれたような想いだった。一歩祖国の土を踏んだ時は、歓喜と感激に涙は止めどなく流れ「生きて還れた」という生涯に最も心に刻まれた感動の日だった。いつも忘れられない寒さと飢えと重労働の抑留生活は、生の極限だった。その中で多くの友は、帰国の念を胸に次々と亡くなった。
 抑留生活の体験は、私の絵を描き起こさせた原点である。万死に一生を得て今、余生の私は八十路に入り、慈愛の中、健やかに絵を楽しみ、生かされて生きている重さをしみじみと感じている。極寒・雪ばかりのシベリアから舞鶴港に生還した時に見た美しい日本の秋は、今も鮮やかに脳裏にある。亡き友の鎮魂の祈りを捧げ、二度とこのような抑留や戦争を起こしてはならないという想い追憶を重ね、心を込めて描いている。
 帰還から60年余りの歳月が経ち、今は酸素を吸入しながら制作に打ち込んでいる。もっともっと緩やかに流れてほしいと願う私を無情にも無視して、時は永遠に流れていく。

Siberia Series シベリアシリーズ 2009 -
 
2014年
 7月、祖父が他界しもうすぐ2年が経つ。今も祖父との二人展を通じて、元抑留者やそのご遺族からお手紙が届く。その中で祖父がどの収容所へ送られ、どうやって帰ってきたかという書類を国に請求できると教えてくださった方がいた。
 申請して1ヶ月後、モスクワのロシア連邦国立軍事古文書館が保有している「抑留者個人別登録文書の写し」が厚生労働省から届いた。その資料と祖父の記憶には違いがあり、下記を訂正。祖父に一番知ってほしかった事実。早くこの資料を取り寄せてあげればよかったと後悔している。
 
2013年
 70歳で初めて絵筆を持った祖父・川田一一は、家族にも話してこなかった体験をキャンバスに吐き出すように描き始めました。それはやせ細った人が倒れ、何かを叫んでいるような、恐ろしく暗く悲しい永遠の闇のような世界。当時、油彩の技術がほとんどなかった祖父の作品から、中学生だった私は何か強いショックに似た怖い印象を受けました。「おじいちゃんに何があったの?」と、祖父を心配しつつそっと尋ねたのを覚えています。そこで初めて知った、祖父のシベリア抑留。
 画家になりたかった祖父は、70歳から地元の絵画教室で静物画や風景画の基礎を習い、家ではシベリア抑留体験を描いていました。早く自分がイメージしたものをキャンバスに表せるようにしたいと、自分のつたない描写力を嘆きながらも貪欲に制作に取り組んでいました。私はいつしか祖父と同じ画家という夢を見始め、良き理解者である祖父を絵心の分かりあえる仲間として、ライバルとして、そして心の支えとして励んできました。
 祖父が80歳になった頃、抑留体験そのものを描いていた作品に変化が訪れます。シベリアの地に眠っている抑留者を慰める仏像やお遍路さん、還って来られなかった抑留者の魂として日本へ飛んできた蛍がキャンバスに表れ、祖父独自の構成された絵になりました。この頃から息を引き取るまで、祖父は家族に「絵の中だけでも日本に還られなかった仲間を供養したい。そして、これからも抑留者のことを忘れられないように多くの方に絵を見てもらいたい!」と話していました。
 4年前に帰郷した私は、以前のように祖父と共にアトリエで制作し始めました。咳をしながら、ゆっくりとした足音でアトリエに入ってくる祖父。一度絵筆を握ると自分が納得できるまで色を重ね、何時間もキャンバスと戦う表現者としての姿。隣で一人の画家の生涯に触れられたことは、私の宝となっています。
 これからも祖父という画家の想いを引き継いでいこうと思います。そして、多くの犠牲者の存在を忘れられないよう、また今日の平和の有り難さに目を向けてもらえるよう、祖父と孫の二人展を続けていきたいです。
 
2010年
 祖父・川田一一(かわだかずいち)と私は、17年前一緒に油絵道具を購入し、絵を始めました。絵を通して知った祖父の過去、シベリア抑留。それは祖父にとって、生きて帰られても拭いきれないもので、また戦争を知らない私にとっては、理解しづらいものでした。 そして、祖父はシベリアでの体験を絵に残し、シベリアで亡くなった仲間への鎮魂を絵で供養したいと、毎日キャンバスに向かっています。そんな姿を見ていると、微力でも何かできることはないか、次世代だからこそできることはないかと考えざるをえませんでした。これまで温めてきたこの思いを有り難いことに、2009年は地元で初二人展として発表することができ、2010年は祖父が帰国した舞鶴港にある「舞鶴引揚記念館」で二人展開催できました。戦争を経験したからこそ伝えられること、戦争を知らないから受け継げられること、そして「家族」というつながりを改めて見直す機会になればと願っています。

2015 "遺されたもの~戦後70年~" かまどホール、香川
2013 "鎮魂~後世に伝える平和への祈り~" 21世紀館さんがわ、香川
2011 "私のシベリア 私の祖父" 特別養護老人ホーム大寿苑、岡本荘、香東園、香川
2010 "私のシベリア 私の祖父" 舞鶴引揚記念館、京都
2009 "記憶の調べ" 21世紀館さんがわ、香川
2015 "The remaining thing~the 70 years since the end of World WarⅡ~" Kamado Hall, KAGAWA
2013 “Repose of souls~The prayer for the peace handed down to future generations~” 21Century hall Sangawa, KAGAWA
2011 "My Siberia My Grandfather" Daijyuen, Okamotosou, Koutouen, KAGAWA
2010 "My Siberia My Grandfather" Maizuru Repatriation Memorial Museum, KYOTO
2009 "Melodies of Memories" 21Century hall Sangawa, KAGAWA